「へえ、石ころがひとつなの」というのなら、まだいいってものだよ。もっとひどいいい方になると、「なによ、とれ。ズボンの折り返しに入っていたんじゃないの」というぐらいがオチじゃないかなあ。これなら、男としては、実際にやり切れないってことだよ。どうも日本の女性は、金銭を唯一の価値だと思ってしましうところがあるようだなあ。ナントカ連の女性方も、男から金を省り取ることを唯一の勝利と思ってらっしゃるようだけれど、これは、実に虚しいといわなければならないと思うんだ。プレゼントは、決して金目のもんじゃないんだよ。それをどうも日本のお嬢さん方は間違っているような気がするんだよ。だから、日本の宝石の値段が世界で一番高いものになってしまうんじゃないかなあ。宝石と石ころの価値は、それを受けとる時の心境なんで、すべては心が価値を決定してしまうのである。女性は子宮感覚というのかなあ。すべてをしまい込む感覚があるんだから、なにもかも自分の取り分にしてしまうもんだけれど、そこに素朴な喜びをもってほしいと思うんだよ、おれは:::。愛を育てていく過程というものはそういうものを根底においてやらなきゃならないんだからねえ。金持ちの男が虚栄心の強い女を引っかけるのは、世話ないわけだよなあ。それよりも、貧しくっても、心が豊かで夢と目的をもった男女が町で出会って、愛を育てていくというのが一番素晴らしいということなんだよ。このところをよく憶えていてほしいんだよ、お嬢さん。顔じゃないよ、心だよ。金じゃないよ、心だよ。信じるということ偽お嬢さん、男と女の間で信じ合うということをを使って考えてみょうか。「あたしは彼を信じていたのよ」という開山口は、女性が失恋した時に必ず口にする言葉なんだな。これは、間違っていると思うな。信じていたのに裏切られたというのは、あまりにも一方的ないい方だと思うんだなあ。なにを基準に「信じる」という価値判断を下したかということだよ。もともと人間の心というのは、あやふやなものさ。自分でもわからない。「これがあたしの心なのよ」と、取り出して見せることは、ほとんど不可能だろう。お嬢さん、あなたが毎日、日記を書いている人なら、とてもよくわかってもらえると思うんだが、毎日の出来事を文字にする時、その一日の出来事が時間と場所だけが、あるいは、出会った人の名前なんかだけが明らかであって、その時間と時聞の聞のうつろいやすい人の心の書き方が、実に危ういということがわかってもらえると思うんだな。

どういうことをやったーーということは書けるわけだけれども、どういう気持ちでこういうことをやったとなると、とても書けないだろう。もし、書こうとしたなら、大抵は一人よがりの表現になってしまうわけだ。素晴らしい出来事があった場合には、形容調を沢山使うとか、あるいは時聞がかかっても平気で疲れもしないで長い文章を績ったりするものなんだよ。これが逆に、いやなことがあった時には、文章は極めて短くなり、形容詞や形容動調、それに副詞といったものが入らなくなってしまう。俗にいうと、ポキポキした文章、乾き切ってしまった文章ということになってしまうわけなんだなあ。といってだよ、電報の文章とはまた違うわけなんだなあ。あれは考えた末に、今、自分はなにをいおうとしているかと目的を定めて、文章を簡略化していくわけだから、そこには不要な言葉を省略した最小限の言葉があるわけだが、日記にいやな出来事を書く時には、こういう深い考えを巡らす余地、心の余裕というのが、まったくないわけなんだなあ。お嬢さん、君だって、いいことはいつまでも憶えていたい、大切に蔵っておきたいという気持ちがあるだろう。だけど、いやなことは、一刻も早く忘れてしまいたいという気持ちになるわけだよなあ。人間、みんなそういうことだ。おれは考えるんだが、これが人間と動物の違いだと思うんだよ。人聞はいやなこと、悦かったことを一秒でも早く忘れようとするけれど、動物はいやだったこととか、伯かったことを大事に憶えておこうとしているんだなあ。信じていたのに関された?おれは動物が好きだから、チンパンジーの小説を書いたりしているけれど、チンパ γジーにしても、犬にしても伯いこと、いやなことをよく憶えているよ。ヘルメットを見ただけで逃げたり、長靴に噛みついたり、雨傘を見ると飛んで逃げたりするもんだよなあ。これらは、きっと、也@ヘルメット姿の狩猟家にひどい自に遣わされたり、長靴で蹴られたり、雨傘で突かれたりしての苦い過去の記憶が残っているものなんだよねえ。生涯、拭えない傷っていうものが残っているわけだろうなあ。人聞は、こういったいやなことを忘れようと思う心が働くだけ高等な動物といえるかもわからないけど、これが逆に作用すると大変なマイナスになっていくと思うわけなんだなあ。つまりだね、忘レヨゥ、忘レタイと思うから、余計そこに忘レラレナイ事柄が残ってしまうというタイプの女性がいるものなんだよ。

日記にも、「いやなことは書かないッ」と宣言して、その実は、書かないから、心の中に、いやな事が棲みついてしまうというんだ。そして、眠れないということになる。横になると、いやな事に関連づけられたことが、次から次へと頭の中に舞い降りてくることになるんだなあ、あれがいけなかったのだ、あの一言があたしを傷つけたのだ、あの時の彼の態度がいやだったのだと、眠れないままに、次から次へとつまらないことを並べはじめる。そして自分を納得さすために、自分以外の人間、つまり、恋人、友人、知人、両穀、姉妹、全部を次から次へと悪人に仕立てあげてしまうんだよ。みんなを敵にまわしてしまう。本来は味方だった人なのに、これさえも敵にまわしてしまうわけなんだよ。これなんかは、とても損な性分だとおれは思うんだ。忘れようとして、余計強く自分の中にいやなことを棲み込ませてしまうわけなんだよなあ。そういう人が、えてして、独断的な解釈をしてしまうものなんだ。「あたしは信じていたのに:::」などという。だま信じていたのに嘱されたとか裏切られたのとか吠えたてるのだなあ。そして、こういう女性にかぎって、「あの人があたしを信じてくれていた」という実感がないのだからいやになってしまう。お嬢さん、そういう女性に出会うとね、おれは、いいたくなるもんだよ。「あんた、自分勝手にそう思い込んだんだろう。だったら、そう信じていたのに、信じていたのにといいふらすことはないだろう。第一、みっともないよ。そんなに、軽く、信じていたのに裏切られたとあっちこっちにいいふらしているところをみると、あなたは愛の入り口で、あまりにも軽率に彼を信じた女ということになるよ」すると、彼女は、ぷ とふくれてしまうものなんだな。得ょうと思っていた同情が得られなかったからなんだろう。大体ねえ、お嬢さん、同情を得ょうというのがいけないのだよ。きずな愛というものは片方では確固とした強い粋であるけれど、片方では、砂の楼閣、砂の城みたいに、とても脆もるくて壊れやすいものでもあるんだよ。それを、「信じたのに:::」とか、「信じていたために・::・」というのは、とても虫のいい言葉としか思えないなあ。愛の足跡をたどっていく時、そこに信じ合えるものが一瞬でもあるってことは、なんと素晴らしいことか。その瞬間を大切にしていけばいいと思うんだなあ。索朴に信じていいのは両親これは、なにも人対人ではなくて、人対動物とか、人対自然といったことにもあるんじゃないかなあ。

このおれだって、信じていた女に裏切られたこともあるさ。十九ぐらいだったなあ。同い年の女だったけど、見事に裏切られたと思ったものさ。今になって考えてみれば、彼女の気持ちの中にはおれを裏切ろうという気持ちは毛頭なかったんだと思うよ。おれが、ただ一人であれこれと自分勝手な想像をしていたんだと思う。ひとりよがりな想像をしながらすすんでいたから、自分の意志が通じなかった時に裏切られたと思ったんだと思うよ。おれは白禁酒を飲んで一週間ぐらいでおれの愚かさに気付いたもんだけれど、男だからこういうふうにいけたものの、女では到底そういう行動では解決するものではないと思うわけだ。恋人にしろ、友人にしろ、他人を信じるってことは、とても難しいことだと思っているよ。といって、疑いながら付き合えっていってるわけではないんだ。ただ、信じるってことを簡単に自分にいい聞かす時が疑問なんだよ。本当はね、お嬢さん、一番に素朴に信じていいのは両親なんだよ。両親の生き方に批判的になってもいいし、懐疑的になってもいい。これは、子供としての当然の権利なんだよ。だから、十九歳ぐらいまでに、親に向かって、不信な点があったなら、どこまでも食い下がった方がいいよ。おれの知っている娘さんは、母親が二号さんなんだ。彼女は母親の生き方に十歳ぐらいから疑問をいだいていた。不信になった時期もあったようだけれど、これを母親に向けて、ぶっつけてみたととがあるそうだ。「お母さんは、どうしてオメカケさんなの」と。すると、母親は次のように答えたんだなあ。「でも、お母さんは、あの人が好きなのよ」ル』。そして、お母さんは、十九歳の娘に向かって、それまで話していなかった「愛の遍歴」を涙まじりに話してくれたという。その時、彼女は、母親が妻子ある男性を愛していこうと定めて、自分を生んでくれたことを認識して、今までの母親不信が一挙に消えてしまったというのだよ。信じる、信じ合うということは、こういうことを指すのではないかと思うなあ。信じていたのに裏切られたというのは、あまりにも一方的な解釈だというととがわかってもらえただろうか。自分の心を裸にして、向こうの心も裸の状態になった時、人聞は、はじめて、信じているという入り口に立つことが出来るのだと思うのだが:::。お嬢さん、どうなんだろう:::。見まね物まねお嬢さん、どうして女性はよく喋るんだろうね。それも、ほとんど論理的じゃないんだなあ。

感情的っていうか、勘定的というのかなあ。そりゃね、人間は自分の欲望に忠実なのは悪いものじゃないけれども、その欲望が赤裸々に、会話や行動に出てくるのは考えものだと思うよ。男から見ると、女性は、この精神的エネルギーを別の方向に向けたならいいと思うのだけれども、もう少し目的意識をもってエネルギーを集約したならいいと思うんだけれども、それをしないんだなあ。その時、その時の話題だけでぱっと終わってしまうんだなあ。たとえばだよ、テレビ局にゲストの歌手、タレント、それもお嬢さんぐらいの年齢の人が集まってくると、話題は大変な方角にどんどん飛んでいくものだ/ / よ。「あら、これ、どこで買ったの」めからはじまり、装身具、小物のバと、先ず、衣裳(といってもステージのではなくて、日常の服装について)の品定グなどを色々と評価していく。時には、バーゲンセールの情報交換をしているのである。「あら、これはどうなってるの。ははあ、そういうふうにするのね。なるほどねえ、うまく出来てるのねえ。どこに売ってたの。ねえ、教えて、教えて:::教えてったら:::」と、そりやもう黄色い声の交換である。すると、聞かれた方は、どこそこのなんという店よといったりしている。この会話は、男のおれには、まったく理解されないんだなあ。どこになにが売ってるかというのは、たいしたものじゃないわけだ。そんなのは、自分の足で探してくるだけでいいのじゃないかなあ。他人の着ている物、持ち物を自分のものとして、所有しようとする欲望は考えなくてもいいんじゃないかなあ。そういうことで、自分の個性を喪失してしまうのではないかなあ。もともと個性的な素質を自分の中にもっている人なのに長じるに及んで、この個性が死んでしまって、没個性になってしまうわけなんだなあ。本来の自分のもっている色彩感とか造形感がくずれてしまうのではないだろうか。それも自分のもっているものが、徐々に失われてしまうというかたちで、悲劇的にすすんでいくわけなんだなあ。その結果、一生の色彩感が定まってしまったら、ほんとうに不幸だと思うんだよなあ。「この色が自分の現在の唯一の色」と発見するまで、色彩の旅に出て行かなくてはならない。そこにこそ、個性的な女性が誕生すると思うんだなあ。だから、他人の着ている物とか持ち物とかにあまり関心をもたない方がいいと思うんだよ。自分の物は自分の目で確かめた方がもっといいと思うんだよなあ。

他人と仲良くするのはいいことだけど、他人と自分とは、はっきり個性が遣うととを自覚すべきだと思うんだ。結婚、恋愛でも人真似主義行だがね、お嬢さん、少し意地の悪い見方をすると、友人の持ち物や着物について関心をもっ女性には三種類のタイプがあるんだなあ。はじめのタイプは、「あら、いいわ。あたしも欲しいわ」という単純といおうか、素朴といおうか、あたしも是非身につけてみたいという欲求タイプなんだな。次は、相手に優越感をもっタイプの女性がいるんだなあ。「この人でこれだけ似合っているんだから、あたしが身につければ、もっとよく似合うわよ」というやつなんだな。こういう女性は口許に皮肉なわらいをうかべていたりして、女の底意地の悪さがなんとなく漂っていて、男のおれからみると、とても不気味なんだなあ。人聞の心というのは、顔にあらわれるもんだよ。それも、主に目と口許にね。とくに、女性の場合は極端にあらわれるものだからね。気をつけなくてはいけない。相手を噸笑している目とか相手を軽蔑している目とかいうのは、一番醜い表情になるものだよ。だから、心やさしい女の目はやさしいし、口許もまたやさしい微笑が自然に漂い出ているものなんだよ。もうひとつのタイプというのは、こりやもう、どうしょうもない意地悪タイプとでも呼べそうな女性がいるものだよ。「なによ、この人、全然似合っていないじゃないの。こういうものは、あたしが身につけなくてはいけないものなのよ」という考えの女性なんだよ。こういう女性は、週刊誌やテレピでタレントの着ているものを見て、あれこれいっている。肝腎の歌なんかそっちのけなんだからねえ。実際いやになるよ。女が女の服装を批評するのはまだいいのだけれど、陰口をたたくのは許されないし、また自分自身も大変損をするのだと思う干ι。大体、タレントの服装ほど没個性なものはないと思っている。つくられた服、着せられた服、人間のイメージではなくて、歌のイメージに合った服というものなんだなあ。だから、そういう服のことをあれこれいっても仕方がないってことなんだ子品。ところが、その服からヒントを得たりする女性がいるから、ほんとにいやになってしまうんだなあ。うしょうもないなあ。物真似も、ここまでくると猿真似みたいなもんだよ。こういう衣裳や品物に対する真似主義が、結婚にまで及べば、これはもうどいや、結婚ではなくて、恋愛にも真似主義がいるもんだよ。